いいちこ の秘密

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今週の本棚:富山太佳夫・評 『奇蹟のブランド「いいちこ」』=平林千春・著

 (ダイヤモンド社・2100円)

 ◇モノと文化を合致させた成功物語

 大分県の宇佐市三和酒類という会社がある。社員は三〇〇人ほど。毎日始業八時の「三〇〜五〇分前ぐらいにほとんどの社員が出勤し、事務所、工場の構内の清掃をする」。応接室と言っても高額な絵が一枚飾ってあるわけではないし、「役員室はいまだに全員一緒の大部屋」。都会に位置していればなかなかこうはいかないのかもしれないが、いかにも田舎の清貧の会社という印象である。

 ところがこの会社、年間の売上げが五九〇億円、経常利益が一〇〇億円もあるというのだ−−とたんに思考が停止し、体が硬直する。なぜ? 答えは簡単だ、この会社が「下町のナポレオン」という愛称の焼酎『いいちこ』を作っているからである。この酒はアルコール度数二五度で、

 「ストレート、ロック、水割り、お湯割り、ウーロン茶割りなど多様な飲み方を可能にした。水、お湯で割れば、アルコール度数は清酒より低くなる。初めて飲む人でも障壁が低い。まろやかな口当たりで、しかも飲み心地がさわやか、後に残らない。料理の味も殺さない。しかし心に残る味わい深さがある」。もちろん『いいちこ』のファンならば、そんなことは先刻承知ということになるだろうが、こんなコマーシャルを眼にすれば、私のようにからきし酒に関心のない者でも、ちょっと手を出してみようかという気にならないでもない。

 テレビのコマーシャルでこの『いいちこ』の……と書きかけて、他社のビールやウイスキーの、芸能人を起用しただけの、愚劣な、紋切型のそれとはまったく別格のコマーシャルのことを思い出した。純朴なノスタルジアの漂う静かな風景、ビリーバンバンのやさしく透明な声、その中にぽつんと置かれたボトル。酒を飲まない私でも好きになれる映像だ。もう何年も同じような趣向なのに見あきないし、ずっと流しながら本を読みたいと、よく思う。誰が制作しているのか、興味はあったのだが。

 この本がそれを教えてくれた。河北秀也。この本はその河北の独創的な広告戦略と三和酒類の誠実な品質向上をめざす努力が結びついて大成功につながってゆくプロセスを追いかけたもの。この手の本としては例外的に面白い。

 河北秀也はみずからの戦略を説明して、「『いいちこ』は広告をしてきたのではない。デザインをしてきたからここまできたのだ」という言い方をする。彼はマーケティングの常識にさからって、売るために消費者を刺戟するという方向をとらなかった。駅の広告などで確実に『いいちこ』のファンを作り、その人々を土台として、この「ブランドが生きていく環境づくり」から手をつけたのだ。既に存在する有名ブランドの広告をしたわけではないし、新製品発売の騒ぎに加担したわけでもない。三和酒類の人たちと協力して『いいちこ』を創造したのだ。この協力関係は、この『いいちこ』と呼ばれる商品がモノとしての焼酎という面と文化という面の両面をもっていることを如実に物語っている。その両面がみごとに合致したときに誕生するのがブランドと呼ばれるものなのだろう。みずからの故郷の麦焼酎を、ひとりの卓抜なデザイナーとして稀有のブランドに仕上げた河北。彼には、このブランド創出の最大の立役者が、じつは自分でも会社でもなく、『いいちこ』を消費しつづける無名のファンであることが見えているはずである。その意味でも、幸福なデザイナーだと言うしかない。

毎日新聞 2005年11月13日 東京朝刊